(July 18th, 2004)

 ここまで、収容所で被収容者を打ひしぎ、ほとんどの人の内面生活を幼稚なレベルにまで突き落とし、被収容者を、意志などもたない、運命や監視兵の気まぐれの餌食とし、ついにはみずから運命をその手でつかむこと、つまり決断をくだすことをしりごみさせるに至る、感情の消滅や鈍磨について述べてきた。

 いらだちも、感情の消滅とならぶ被収容者心理のきわだった特徴だが、これにも肉体的な要因が認められる。

 肉体的な要因は数あるが、筆頭は空腹と睡眠不足だ。

 堕落は、収容所生活ならではの社会構造から生じる比較によって、まぎれもない現実となる。わたしの念頭にあるのは、あの少数派の被収容者、カポーや厨房係や倉庫管理人や「収容所警官」といった特権者たちだ。彼らはみな、幼稚な劣等感を埋めあわせていた。

 では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという、精神の自由はないのか、と。

 典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげないなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

つづく